−p.47−
認識能力が形而下的な対象である限りにおいて、その認識は形而下的な科学である。しかし、我々がこの能力によってすべての事物を認識する限りにおいて、その科学は形而上学となる。理性の科学的分析が理性の本質に関する通常の見解を転倒させるように、この特殊の認識は必然的に我々の世界観全体の一般的転倒を呼び起す。理性の本質に関するこの認識によって、長い間求められていた「事物の本質」に関する認識は与えられたのである。我々は、知られ、理解され、把握され、認識されるべきすべてのものを、その現象によってでなく、その本質によって捉えようとする。科学は現象によって真の存在を、すなわち事物の本質を求める。特殊の事物は何れもその特殊の本質を持っているが、しかしこの本質は眼や、耳や、手に対しては現れず、思惟能力に対してのみ現れる。丁度眼がすべての見えるものを研究するように、思惟能力はすべての事物の本質を研究する。丁度一般に見えるもの(das Sichtbare)が視覚の理論において見出されるように、一般に事物の本質は思惟能力の理論において見出される。
事物の本質は眼等に対してでなく、思惟能力に対して現れる。とここで云ったが、現象の反対のものすなわち本質が現象するというのはいかにも矛盾するように思われるであろう。しかし、前章において我々が精神的なものを感覚的と称したのと同じ意味において、我々はここで本質を現象と称する。そして、存在はすべて現象であり、現象はすべて多かれ少かれ本質的存在であることについては後に精しく述べるであろう。
我々は、思惟能力は活動するためにはすなわち現実的であるためには対象・質料・材料を必要とすることを知った。我々は科学という言葉を単に狭い古典的な意義に解しても、或は例外なしにすべての知識が科学であるという最も広い意義に解しても、科学の中には思惟能力の結果が現われている。科学の一般的対象すなわち物質は感覚的現象である。感覚的現象は周知のように物質の無限の交代である。世界及びその中のすべてのものは、空間的には併存し、時間的には継起する物質の変化から成立っている。世界、すなわち感覚或は宇宙、は空間的・時間的にそれぞれ独自であり、新しくあり、決してかつてあった如くではない。世界は我々の眼前で発生しては消滅し、消滅しては発生する。一としてとどまるものはなく、変らぬものは永遠の交代だけである。しかもその交代もさまざまである。時間・空間のどの部分においても新しい交代が行われる。
勿論唯物論者は物質の不変・永遠・不滅を主張する。唯物論者は我々に、今まで一グランの物質も世界から失われたことはなく、物質が永遠にその形態を変えるだけであり、しかも物質そのものは破壊もされず滅びることもない、と教える。しかし唯物論者は、物質其物とその消滅する形態とを区別するにも拘らず、他方においては何人にも増して、物質と形態との同一性を強調しようとする。唯物論者が反語的に形態のない物質と物質のない形態とについて語り、しかもその後で永遠の物質の移り変る形態について語るならば、唯物論が観念論と同じように、形態と内容、現象と本質に関して説得をなしえないことは明かである。
我々はかの永遠の、不滅の、従って形態のない物質をどこで見出すであろうか。感覚的現実界においては我々はいつでも形態のある、移り変る物質に出会うだけである。いかにも物質はどこにもある。或る者が消滅するところでは他の者が発生する。しかし、かの単一な、自己同一的な、形態を変えない物質は実際上どこでも発見されたことはない。化学的に分解することのできない元素もその感覚的現実においては相対的な単位に過ぎず、一般に時間の経過においても、空間の拡がりにおいても、併存及び継起の関係において異なっている。
それは丁度、或る有機体が、いかにも形態だけは変っても、その本質・一般性においては始めから終りまで一貫して変らないのと同じである。私の身体は肉や骨やその他付属するすべてのものを絶えず変えるが、身体は依然として同一である。一体、変化する現象から区別されるこの身体そのものはどこにあるのであろうか。答は、その多様な形態の全体、すなわち概括して統一された総和の中に、である。永遠の物質、不滅の物質は、現実的に或は実際上は移り変る形態の総和としてのみ存在する。物質は不滅であるというのは、いつでもどこにも物質があるということを意味しうるに過ぎない。我々の言うように、変化は物質に存し、物質は変らず、変化するものが交代するだけであることが真であるならば、我々は関係を逆にして、物質は変化の中に存し、物質は変化するものであり、変化のみが変らないものである、と云っても真であろう。物質的変化と不変の物質とは全く言い方が違うだけのことである。
感覚的世界すなわち実践においては、永久のもの、同一のもの、本質的のもの、「事物自体」は存在しない。すべては交代であり、変化であり、云わば幻影である。一つの現象は他の現象を追い出す。
「それにもかかわらず、」とカントは云う、「事物は自体的にも存在する或る者である。何となれば、さもなければ現象を生ぜしめる或る者のない現象があるというつじつまのあわない矛盾に陥るからである。」
しかしそうではない。現象と現象を生ぜしめるものとの差異は十マイルの道の内容と道そのものとの差異、或は小刀と柄および刀との差異と同じである。我々は小刀において柄と刀とを区別するが、しかし柄も刀もなければ小刀は存在しない。世界の本質は絶対的変化である。――それだけのことである。(voilà tout)
−p.50, l.8−
「事物自体」・本質とその現象との矛盾は、完全な理性批判によって解決される。すなわちその矛盾は、人間の思惟能力は任意の数の感覚的に与えられた多様性を精神的統一・本質として捉えること、特殊のもの或は雑多なものにおいて同種のもの或は一般的なものを認めること、従って一般者に対立するすべてのものをヨリ大きな全体の個々の部分として理解すること、等を認識することによって完全に解決される。
言いかえれば、感覚世界の絶対に相対的な・一時的な・形態は我々の脳髄活動にとっての材料となり、我々の意識は同種のもの或は普遍的なものという標識によってこの材料を抽象し、これを体系化し、秩序づけ或は規制する。無限に多様な感覚界は精神すなわち主観的統一に出会う。すると、そこで精神は多者から一者を、部分から全体を、現象から本質を、消滅から不滅を、属性から実体を作り上げる。実在、本質或は事物自体は理想的な、精神的な産物である。意識は雑多なものを集計して統一することを心得ている。集計される量は任意である。理論的には宇宙の多様性全体が統一として捉えられる。
然るに実践的には小さい抽象的な統一は解消して無限に多様な感覚的現象となる。我々の頭脳以外のどこに実践的統一が見出されるであろうか。二分の二、四分の四、八分の八等無限の数に分けられた部分が、それによって悟性が数学的一を作り上げるための材料である。この書物、そのページ、その文字或はその部分々々が統一ではなかろうか。
どのように社会が創造性の損失に影響を与えない
私はどこで始め、そしてどこで終るのであるか。同じ権利をもって私は、多くの蔵書をもった図書館、家と庭、そして最後に世界を統一と名づけうるであろう。何れの事物も部分であり、何れの部分も事物ではなかろうか。木の葉の色は木の葉そのものと同じように物ではなかろうか。色のない木の葉はあるだろうが、しかし木の葉がなければ色もありえないから、色を単に属性と称し、木の葉を質量或は実体と称する人も恐らくあるだろう。ところが我々が砂の堆積から砂を取り出して行けば砂の堆積のなくなるのが確実であるように、我々が木の葉からその属性を取去って行けばすべての質量或は実体もなくなるに違いない。色が光、木の葉及び目の相互作用の総計にすぎないように、木の葉の「その他の質量」も種々の相互作用の集計に外ならない。我々の思惟能力が木の葉から色という属性を毟(むし)り取り、その属性を「事物自体」として固定させるように、我々は更になお任意の数の属性を木の葉から取去ることができよう。しかしそれは木の葉からその「質量」を次第に取去って行くことである。色はその性質から云えば、木の葉に劣らず質量或は実体であり、木の葉は色と同じく純粋の属性である。色が木の葉の属性であるように、木の葉は樹木の属性、樹木は地球の属性、地球は世界の属性である。
世界だけが本来の実体、一般的質料であって、それに対してすべての特殊の質料は属性にすぎない。そこでこの世界質料からみれば、現象から区別された本質・事物自体は考えられたものにすぎないことは明らかである。
精神は一般的に、属性から実体へ、相対者から絶対者へ、仮象を越えて真理へ、事物「自体」へ到達しようと努力したが、その努力の結果、実体は思想によって集められた属性の総計であること、従って、精神或は思想は、感覚的多様性から精神的統一を創り出し、世界の移り変る事物或は属性を結合することによって、独立的な存在「自体」すなわち絶対的な全体として捉えるところの唯一の実体的な存在であることが明かになった。精神は属性に満足せず、絶えず実体を尋ね、仮象を捨て去り、真理・本質・事物自体を求め、そして最後にこの実体的真理が、真理でないと想像されたものの総計、すなわち現象の全体であることを明かにしたが、それによって精神は自分が実体の創造者であることを実証した。しかし、この創造者は無からでなく属性から実体を、仮象から真理を産み出すものである。
現象の背後に本質が隠れていてこの本質が現象するという観念論的な考えに対しては、この隠れた本質は外界にではなく、人間の頭脳の中に別に住んでいるという認識をもって酬いることができる。しかし、頭脳は仮象と本質、特殊なものと一般的なものとを感覚的経験にもとづいてのみ区別するのであるから、この区別は根拠のあることであり、この認められた本質は現象の背後にはなくても、しかし現象の中には現存し、客観的に現存するということ、そして我々の思惟能力は本質的・実在的な能力であるということ、を見失ってはならない。
事物が事物として存在するのは「自体」として、本質においてではなく、他者との接触において、現象としてのみであるということは、自然的事物についてのみでなく、精神的事物についても、更に形而上学的にはすべての事物について言いえられる。この意味において我々は次のように言うことができよう。すなわち、事物は存在するのでなく、現象するのである。そしてそれが空間・時間において接触する他の諸現象が多様であるように、無限に多様な現れ方をするものであると。しかし、「事物は存在するのでなく、現象するのである」という命題は、誤解を避けるためには、「現象するものは存在する」しかしそれが現象する範囲内においてのみである、という命題で補われなければならない。
「我々は熱そのものを知覚することはできない、」とコッペ教授の物理学は言っている。「我々は熱の作用から推論して、この動因が自然の中に存在することを推測するだけである。」このように推論する自然科学者は、実践的に物の作用を熱心に帰納的に研究することによって物の認識を求めているのであるが、論理学の理説の理解を欠いているために、隠れた「事物自体」への思弁的信仰に助けを求めるのである。それとは逆に、我々は熱そのものの知覚できないことから推論して、自然においてこの動因は現存せず、自体として存在することもないと考える。むしろ我々は、熱の作用は物質的材料であって、この材料から人間の頭脳が「熱そのもの」という概念を作り上げると理解している。科学がおそらくまだこの概念を分析していないので、教授は、我々は熱概念の対象を知覚しえないと、云ったのであろう。熱の種々の作用の総和、これが熱そのものであり、それ以外に熱はない。
思惟能力はこの種々の作用を概念において統一として捉える。この概念を分析すること、熱と呼ばれている極めて多様な現象或は作用の中から共通なもの或は一般的なものを発見することが帰納的科学の職分である。しかしその作用から引離された熱は、柄も刀もないリヒテンベルクの小刀(6)と同じように、思弁の産物にすぎない。
思惟能力は感覚の諸現象と接触して事物の本質を産み出す。しかし思惟能力は独りで、勝手に或は純粋に主観的に事物の本質を産み出すのではない。それは丁度、眼、耳或はその他の任意の器官が客体なしにその印象を産み出しえないのと同じである。我々が見且つ触れるのは事物「そのもの」ではなく、我々の眼、手等々へ及ぼす事物の作用だけである。種々の視覚の印象から共通のものを抽象する脳髄の能力は、見ること一般を特殊の視覚から区別することを我々に可能にさせる。
思惟能力は、一般的な視覚の対象としての個々の視覚を区別し、更にその上に主観的な視覚現象と、客観的な視覚現象すなわち個々の眼に見えるだけでなく一般的な眼に見える現象とを区別する。会霊者の幻想、或は閉じていても充血した眼に見える主観的な印象、痙攣的な閃光、火の輪等も批判的な意識にとって客体である。数里先で明るい太陽の下に輝いている物は、質的には、視覚上の幻像と全く同じに外在的であり真実である。耳鳴りのしている人も、鈴の音ではないにしても、必ず何かを聞いている。
何れの感覚的現象も客体であり、何れの客体も感覚的現象である。主観的な客体は一時的な現象であり、何れの客体的な現象もまた移り変る主観にすぎない。客観的対象はヨリ外面的な、ヨリ隔った、ヨリ固定した、ヨリ一般的的な形で存在するであろうが、しかしそれは本質・事物「自体」ではない。客観的対象は私の目にだけでなく他人の目にも現れ、視覚に対してだけでなく、触覚・聴覚・味覚等に対しても現れ、人間に対してだけでなく他の客体に対しても現れる――しかしそれはただ現象するだけのことである。それは此処と彼処とで違うように、今日と明日とでも異る。すべての存在は相対的であり、他のものに関係し、さまざまの契機及び並存の関係の中で動いている。
−p.55, l.7−
感覚的印象すなわち現象は何れも真実の、本質的な対象である。真理は感覚的に現存し、存在するものはすべて真実である。存在と仮象とは関係にすぎず、対立ではない。現に一般にすべての対立は我々の概括能力或は思惟能力の前では消失する。というのは、この能力こそはすべての対立を調停し、すべての差異の中に統一を見出すものであるから。
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ある(ist)の不定法の存在(Sein)すなわち一般的真理は、思惟能力の一般的対象、一般的材料である。この材料は感覚を通じて多種多様に我々に与えられる。感覚は我々に世界全体という原料を絶対的に質的に与える。言いかえれば、感覚的原料の質は思惟能力に対して絶対に多様である。しかし、ここで多様であるというのは、一般的・本質的にではなく、特殊的に、すなわち現象においてのみ多様であるという意味である。感覚的現象と我々の思惟能力との接触の関係から量が生れ、本質、事物、真の認識或は認識された真理が生れる。
本質及び真理は同じ事柄に対する二つの言葉である。真理或は本質は理論的性質のものである。前に述べたように、我々は世界を二重に、すなわち感覚的及び精神的に、実践的及び理論的に知覚する。実践は事物の現象を――理論は事物の本質を我々に与える。実践は理論の前提であり、現象は本質或は真理の前提である。同一の真理が実践においては並存及び契機の関係において現れ、理論的には緊密な統一として存在する。
実践・現象・感性は絶対に質的である。すなわち、それは量を持たず、空間・時間において何らの限界をもたないが、これに反しその質は絶対に多様である。一つの事物はその部分が無数であるように、その性質も無数である。それとは逆に、思惟能力の作用すなわち理論は絶対的に量的であり、任意に無限の数の量を創り出し、いかなる質の感覚的現象をも量として、本質、真理として捉える。何れの概念もある量の感覚的現象をその対象とする。何れの対象もある量の思惟能力によって量、統一、本質或は真理としてのみ捉えられる。
概念能力は感覚的現象と接触して、現象するもの、本質的なもの、真なるもの、共通なもの或は一般的なものを産み出す。概念ははじめはこのことを本能的に行うにすぎないが、科学的概念はこの行為を知識と>意志とをもって繰返し遂行する。
或る対象例えば熱を認識しようと欲している科学の認識は現象を求めているのではない。すなわち、いかにして熱は鉄や蝋を溶かすか、或は善いことをし或は苦痛を与えるか、卵を固くし氷を液体にするか、動物の熱、太陽及び暖炉の熱はいかに異るか等について聞いたり見たりしようとはしない。これらの事柄は思惟能力にとっては作用・現象・性質にすぎない。思惟能力は自体・本質を求める。すなわち見られ、聞かれ、触られたものの中から集約的・一般的な法則、簡潔な科学的精髄を求める。
事物の本質は感覚的・実践的な対象ではありえない。事物の本質は理論・科学・思惟能力の対象である。熱の認識とは、熱と名づけられる現象において共通のもの、一般的のもの、本質或は真理を認めることである。熱の本質は実践的には熱現象の総和の中に、理論的にはその概念の中に、そして科学的にはその概念の分析の中に存する。熱の概念を分析するとは熱現象の一般的なものを発見することである。
一般者が真の存在であり、事物の真の本質である。我々は雨を規定して、土地を肥沃ならしめるというより、湿っぽいという方が真実である。というのは、雨は周(あまね)く広く湿っぽくするが、ときどきここかしこの土地を肥沃にするだけであるからである。私の真の友人というのは、私の生涯を通じて、昨日も明日も、いつでも友情のかわらない友人のことである。勿論我々は全然変ることのない絶対的友誼を信ずることはできないであろう。それは絶対的真理を信じえないと同じことである。
完全に真理であり一般的であるものは存在一般・世界全体・絶対的量だけである。これに反し、現実的世界は絶対に相対的であり、絶対に無常であり、無限の仮象であり、無限の質である。すべての真理はこの世界の構成部分すなわち部分真理にすぎない。仮象と真理とは硬軟・善悪・正邪のように相互に弁証法的に移行し合うものであるが、しかしそれによって区別がなくなるわけではない。私は、「自体的に」土地を肥沃ならしめる雨や「自体的に」真実な友人のないことは知っているが、しかしある一定の状態に関しては、雨を土地を肥沃ならしめるものと称することもできるし、私の友達の間でも真実の程度の多少を区別することもできる。
一般者が真理である。一般者とは一般に存在するもの、すなわち、現存(Dasein)、感性である。存在が真理の一般的標識である。何故なら、一般者が真理の標識となるものであるから。ところで存在は一般的な形で現存するものではない。すなわち一般者が現実或は感覚界において実際に存在するのは特殊な方法と様式においてのみである。感覚界は自然及び生命の一時的な多様な現象の中にその真実の感覚的現存を持っている。
従って、すべての現象は相対的な真理であり、すべての真理は特殊な時間的現象であることは明かである。実践上の現象は理論における真理であり、逆に理論上の真理は実践において現象する。対立物は相互に制約し合う。すなわち、真理と誤謬は、存在と仮象、死と生、光と闇と同じように、また世界の凡ての事物と同じように、比較的のものにすぎず、度量、容積或は程度の差があるだけである。
言うまでもなく世界の一切の事物は世界に属するのであるから、同一の物質、同一の本質、同一の種族、同一の性質に与(あずか)っている。言いかえれば、感覚的仮象のどの位の量であっても、それが人間の思惟能力と接触すれば、一つの本質、一つの真理、一つの一般者を形造る。意識にとっては一片の塵も塵の雲も、ヨリ大きい地上の幾多の事物と同じように、一方においては本質的な「事物自体」であるが、他方においては単に絶対的な客体すなわち世界全体のかりそめの仮象にすぎない。この世界全体の内部において種々の現象は我々の精神によって目的に応じて任意に体系づけられ或は概括される。
化学上の元素も有機体の細胞も植物界全体と同じ位多面的な組織である。最小の物も最大の物と同じように、個体、種、科等々に分類される。この組織化、この概括、この本質の産出は、上の方へは無限の宇宙にまで進み、下の方へは無限の部分にまで及ぶ。思惟能力にとっては、すべての性質は本質的な事物となり、すべての事物は相対的な性質となる。
何れの事物、何れの感覚的現象もいかに主観的であり、一時的であるにしても、真実であり、多かれ少なかれある量の真理を持っている。言いかえれば、真理は一般的存在において存在するだけでなく、特殊の存在もまた何れもその特殊の一般性或は真理を持っている。どのような対象も、たとえば一時的な理念であっても、上層の空気であっても、手で掴める物質であっても、多様な現象の一定量である。思惟能力は多様性の中から一つの量を創り出し、雑多の中に同一性を、多者の中に一者を認める。
精神と物質とは少なくとも存在するという点では共通である。有機物と無機物とは少なくとも物質的であるという点では一致する。たしかに人間、猿、象及び土地に固着した植物状動物は種族全体として(toto genere)異なっている。しかしそれにも拘らず、我々は一層大きな差異をも有機物の概念の下で結合することができる。石が人間の心臓といかに異って居ようとも、思惟する理性は両者の間に無数の類似点を認める。この両者は少なくとも物質的性質の物である点においては一致する。すなわち両者はともに目方があり、眼で見、手で掴むことができる等々。その差異が大きいほど、その一致点も大きい。ソロモンが「日の下に新しきものなし(7)」と云ったのも、シラーが「人の世は年老いるがまた若返る(8)」とうたったのと同じように真理である。
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いかなる抽象的なもの、例えば、本質、存在も、いかなる一般性も、感覚的存在として現れた場合には、多様であり、個体的であって、すべての他者と異っていないものがあろうか。いかにも、お互いに等しい二つの水滴は存在しない。今の私はつい一時間前の私とはもはや全く異っている。そして私と私の弟との間の同一性が、懐中時計と蛎との間の同一性或は類似性より大きいのは、単に量的であり、程度の差であるにすぎない。
要するに、思惟能力は絶対的な結合能力であって、無限の多様性を一つにまとめるものである。感性は絶対にすべてのものを異った、新しい、個体的なものとして現れさせるが、思惟能力は例外なしにすべてを総括し、概括する。
−p.60, l.7−
我々がこの形而上学を我々のテーマである認識能力へ適用するならば、その諸々の作用は、すべての他の事物と同じように、感覚的現象に属する。感覚的現象はそれ自体だけですべて同じように真である。すべての精神の現れ、すべての思想、臆見、誤謬等々の基礎にはある真理が存在し、すべては真理の核を持っている。画家は彼の創作するすべての形態を必ず感覚から借りてくるように、すべての思想は必ず真の事物の肖像であり、真の客体の理論化である。知識が知識である限り、何れの知識によっても何物かが知られることは言うまでもない。このことは、AはAである、という同一律に、或は百は千でない、という矛盾律にももとづいている。
すべての認識は思想である。しかし、これと反対に、すべての思想は認識である、と言えば反対する人があるかもしれない。人々は、「認識する」を定義して思惟の特殊の様式すなわち真の、客観的な思惟として、思念する(meinen)信ずる或は空想する、と区別するかも知れないしかしそれにも拘らず、無限の差異はあってもすべての思想には共通性のあることも見失ってはならない。思惟能力の法廷では、思惟は他のすべてのものと同じように扱われる。すなわち、思惟は一様のものとなる。私の昨日の思想が今日の思想といかに異って居ようとも、また我々が理念、概念、判断、表象等々をいかに鋭く区別しようとも、これらすべてが精神の現れである限り、同一の、共通の、一様の性質を持っている。
そこで以上のことから、真の思想と誤った思想との差異、認識と誤認との差異は、一般のすべての差異と同じように相対的に通用するにすぎないという結果が生ずる。一つの思想はそれ自体としては真でも偽でもなく、一定の与えられた対象と関係してのみ真になったり偽になったりする。思想、概念、理論、本質、真理は何れも一つの対象に属するという点で一致する。一般に対象は多様な感覚界すなわち「外にある世界」の一定量であることは我々が既に学んだところである。認識され、把握され或は理解されるべき一定量の存在すなわち対象という言葉は、慣用によってその意味が予め規定され或は限定されている以上、真理とはこのように与えられている感覚的定量物の中に一般者を見出すことである、と云える。
感覚的定量物すなわち世界の事物はすべてその仮象の外に真理を、現象を通じて本質をも持っている。現象は感覚との接触によって、本質或は真理は我々の認識能力との接触によって、生れる。それ故我々にとっては、事物の本質がテーマである場合には認識能力に言及し、認識能力を問題にする場合には事物の本質或は真理を取扱う、という避けがたい必然性があるのである。
はじめに云ったように、真理の標準には理性の標準が含まれている。理性と同じように、真理は、感性界の与えられた一定量から一般者、抽象的理論を展開させることの中に存している。従って一般の真理が真の認識の標準であるのではなく、一定の対象の真理をすなわちその一般者を産み出す如き認識が真理であるといえる。
真理は客観的でなければならない、すなわち一定の対象の真理でなければならない。認識は自体的に真であることはできず、単に相対的に、一定の対象に関係してのみ外面的事物にもとづいてのみ真でありうる。認識の課題は特殊の者から一般者を発展させることの中に存する。特殊なものが一般者の尺度(すなわち、制約、前提)であり、真理の尺度である。凡そ存在するものは、その多少に拘らず、悉く真である。
一度び存在が与えられれば、その一般的性質は真であるという結果が生ずる。一般者がどれだけ一般者であるかという程度の区別、存在と仮象、真理と誤謬との区別は、一定の限界内にあり、特殊の客体への関係にもとづいている。一つの認識が真であるかないかはその認識そのものによるのではなく、その認識が自分自身に課し、或は他処からその認識に与えられる限界乃至は課題によって定まる。完全な認識は定められた制限のうちにおいてのみ可能である。完全な真理とは常に自己の不完全を意識している真理である。
すべての物体は重いということは、既に予め物体の概念が重さのある対象に限られているから、完全に真である。理性があらゆる重さを持ったものから物体一般を形造ったのであるからには、物体が一般的・普遍的に重さを持つことが絶対に確実であると云っても別に不思議ではない。我々が鳥という概念を描き出したのが専ら空を飛ぶ動物からのみであったとしたならば、空中でも地上でも或はその他の場所でも、すべての鳥は飛ぶと考えて差支えがない。そしてその際、必然性及び厳密な一般性の標識によって経験的認識とは異るとされている先天的(a priori)認識を信仰する必要はない。
真理はある前提の下に真理であり、前提によっては真理も誤謬となる。太陽が輝くということは、雲のない空という前提の下に理解されれば真である。真直ぐな棒は流れる水の中では曲がるということも、この真理を視覚的真理のみに限るならば鳥の例に劣らず真である。感覚的現象の或る与えられた範囲内における一般者が真理である。感覚的現象のある与えられた範囲内における個別的なもの或は特殊のものを一般者と称するのが誤謬である。真理の反対である誤謬は、一般的に、思惟能力或は意識が無考えに、あさはかに、経験なしに、感覚或は感性が立証する以上の一般的拡張を現象に与えることによって生ずる。例えば、現実の本当の視覚的存在を、早まって有形的存在と憶測する場合の如くである。
誤謬(Urteil)の判断は先入見(Vorurteil)である。真理と誤謬、認識と誤認、理解と誤解は、科学の器官である思惟能力の中に一緒に住んでいる。感覚的に経験された事実の一般的表現は思想一般であって、その中には誤謬も含まれている。ところで誤謬が真理から区別される所以のものはその誤謬が自らがその表現であるところの一定の事実に対して感覚的経験が教えるよりヨリ大きい、ヨリ広い、ヨリ一般的な存在を僭称するところにある。僭越が誤謬の本質である。ガラス玉は真珠であると僭称するときはじめて贋物となる。
シュライデン(9)は眼について次のように言っている。「若(も)し激動した血液が血管を膨ませて神経を圧迫するならば、我々はそれを指においては苦痛と感じ、眼では痙攣する閃光を見る。そこで我々は、我々の表象は我々の精神が自由に創造したものであり、外界は在るがままの姿で我々に対して現れるものではなく、我々への外界の影響はある特殊の精神活動への機縁となるにすぎない、という決定的な証明をえたわけである。この精神活動の産物は屡々(しばしば)外界と一定の連関を持つこともあるが、しかしまた外界と何の関係もないことも屡々である。我々は自分の目を押しつけ、そして光の輪を見るが、しかし光るものは何も存在しない。――すべての種類の誤謬のいかに多くのそして危険な源泉がここから流れ出るかは容易に理解される。霧の深い月夜のおどけた物の姿から会霊者の気違いじみた幻影に至るまで、我々は一連の錯覚を知っている。この錯覚のすべては自然や自然の厳密な法則性から生れたものではなく、自由な、従って誤謬を免れえない精神活動の領分に属するものである。精神がそれに固有なあらゆる誤謬から脱し、誤謬を完全に支配しうるに至るまでには、周到な顧慮と多面的な教養とが必要である。広い意味で『読むということ』(Lessen)は我々� ��とってはやさしいことのように見えるが、しかしそれはむずかしい技術である。精神の報告の中のどれを信頼して、それによって表象を作っていいかを知るには一足飛びにはいかない。科学を事とする人々と雖(いえど)も、この点では屡々誤りに陥っている。しかも、誤謬の源泉をどこに求めるべきかを理解していなければ、いないほどその誤りは数多くなる。」……『若し我々が光を全くそれだけで観察するならば、光は明るくもなく、黄でも青でも赤でもない。光は、非常に微細な、至る所に行き亘っている物質すなわちエーテルの運動である。」
−p.65, l.5−
右のように考えれば、光と輝き、色と形とのこの美しい世界は、現実に存在しているものの知覚ではないことになる。「葡萄の葉の濃く茂った屋根を通して、太陽の光線が静かに快い日蔭に揺れている。諸君は光線そのものを見ているつもりでいるが、諸君の認めるのは全く光線とは違って、塵の群に外ならない。」光と色の真理は「一秒間に四万マイルの速度でエーテルを通して絶えず休みなく突進している波動」である。光と色とのこの真の物体的な性質は掴み難いものであるので、「光の本来の性質を我々に明かにするためには、むしろ偉大な思想家の洞察力を必要とするであろう。」……「我々の感官のそれぞれは全く特定の外界の影響を受入れるだけであり、それぞれの感官の刺激は我々の心に全く異った表象を呼び起す、ということを我々は知った。それで感覚器官は、科学に よって我々に開示される外面的な無心の世界(エーテルの波動)と我々がその中に精神的に住んでいる美しい(現実的、感覚的)世界との媒介者の位置にある。」
ここでシュライデンがあげた例を見てもわかるように、我々の時代は、二つの世界の理解に関して今なお混乱しており、そしてエーテルの波動によって代表されるところの、思惟能力、知識或は科学の世界と、眼或は現実の、明るい色と光によって代表される、我々の五官の世界との媒介を求めるという無駄な努力をしている。我々はこのことによって同時に、思弁的世界観の伝統的残滓(ざんし)が近代の自然科学者の口からわけのわからぬ寝言となってもれる、という実例を持つことになる。この状況の混乱した表現は、その中で「我々が精神的に住んでいる」「科学の物体的世界」というものを区別している。精神と感官、理論と実践、一般的なものと特殊なもの、真理と誤謬との対立は意識されている。――しかし解決が欠けている。彼らは解決の欠けていることは知っているが、それをどこで探したらいいかわからない、それで混乱しているのである。
思弁の克服すなわち感覚によらない科学の克服、感覚の救い出し、経験による基礎づけが我々の世紀の偉大な科学的業績である。この業績に理論的承認を与えることが、誤謬の源泉について理解する所以(ゆえん)である。思弁哲学は精神にのみ真理があり虚偽は感覚にあると考えているが、我々はこのような哲学的臆見を転倒し、感覚によって真理がえられ、誤謬の源泉は絶対のものと臆断された精神の中に求むべきであると考える。神経のある種の報告を信じ、それのみを信頼し、且つそれを弁別する特殊の標準も発見しえずに、ただ漸次的に習得して行くべきである、とするのは迷信である。
我々は臆せずにすべての感覚の証言に信頼する。そこには真正なものから分けられるべき虚偽なものは何もない。非感性的な精神のみが詐欺師であって、感覚を出し抜くことを企てたり、感覚の言ったことを誇張したり、感覚について言われもしないことを蔭で噂したりする。血液が激動したり、眼を外から押えたりして、眼が痙攣的な閃光や火の輪を見る場合でも、眼が他の外界の現象を知覚する場合と同じように、それは決して誤謬ではない。そのような主観的な出来事を「先天的に」(a priori)客観的な物体として見なすとき、我々の意識が誤謬を犯すことになる。会霊者が彼の個人的感覚を視覚一般として、一般的現象として主張するとき、そして彼の経験しないことを軽率にも経験であると称するとき、はじめて彼は誤りに陥る。
誤謬は真理の法則に対する違反であり、この法則は我々の意識に対して次のことを指摘する。すなわち、意識は前提を記憶していなければならない、そしてこの前提にもとづいて、その内部で一つの認識が真でありすなわち一般的であるところの制限、が意識されねばならない,と指図する。誤謬は特殊のものを一般的なものに、賓辞(ひんじ)を主辞に、個々の現象を一般的な事柄にする。誤謬は先天的に(a priori)真理を認識し、誤謬の反対物は、誤謬とは反対に、後天的に(a posteriori)認識する。
先天的認識と後天的認識という二種類の認識の相互関係は、哲学と、科学一般という最広義における自然科学との関係に等しい。信仰と知識との対立は哲学と自然科学との対立において繰返される。思弁哲学は宗教と同じように信仰という境地で安住していた。近代の世界は信仰を転倒して科学にした。政治的反動の親分どもが科学の回心を要求しているのは、それによって信仰への復帰が考えられているのである。信仰の内容は骨折らずにえられる利得である。信仰は先天的に認識する。科学は労働であり、後天的にたたかいとられた認識である。信仰を放棄するすることは、怠け者を廃業することである。科学を後天的認識に制限することは、近代の特徴を示す記念物すなわち労働をもって科学を飾ることを意味する。
シュライデンが光と色との現象に現実と真理を否認し、それは精神が自由に創造した幻像であるとしたことは、自然科学の成果ではなく、哲学的な悪習である。彼が「一秒間に四万マイルの速度でエーテルを通して絶えず休みなく突進している波動」を光と色との真に現実的な性質とみて、光と色との現象に対立させたとき、哲学的思弁に対する迷信が彼をして帰納法という科学的方法を否認させたのである。この考えが逆立(さかだち)していることは、彼が眼に見える物体的世界を「精神の創造物」とし「偉大な思想家の洞察力」によって明らかにされたエーテルの波動を「物体的な自然」と称したことによって明白である
科学の真理と感覚的現象との関係は、一般的なものと特殊なものとの関係に等しい。光と色との真理といわれる光の波動は、それが種々の、すなわち明るい、黄色の、青色の等々の光の現象の一般性である限りにおいてのみ、光の「本来の性質」を代表している。精神或は科学の世界は感性の中にその材料、前提、基礎、端初、限界を持っている。
事物の本質或は真理はその現象の背後にあるのでなく、現象によってのみ認められるということ、そしてそれは「それ自体だけで」存在するものではなく、認識能力と関係してのみすなわち理性に対してのみ現実に存在するということ、そして概念のみが本質を現象から区別するということ、そしてまた他方においては、理性はある概念を自分の中から作り出すのではなく、現象と接触してのみ概念を獲得するということ、これらのことを我々が知ったならば、我々は、「事物の本質」というこのテーマが、思惟能力の本質は我々がその感覚的現象からえてきた概念である、ということを証明しているのを見出すであろう。
思惟能力はその対象の選択において、普遍的であるが、一般に与えられた対象を必要とするという点では制限されていること、そして真正の思惟能力すなわち科学的成果を伴う思想は、知識と意志とをもって外界に存在する対象と結びついていることによって、非科学的思惟から区別されるということ、そしてまた真理或は一般者は「自体的に」認められるのではなく、ある与えられた対象によってのみ認識されるということ、これらのことを認めるならば、いろいろの言い方をされたこの命題が認識能力の本質を含んでいることが理解されるであろう。この命題は各章の終りで繰返される。というのは、すべての特殊の真理、すべての特殊の章は一般的真理を説く一般的な章を実証することのみをその任務とすべきであるから。
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