「ああ、アル坊」
朝食の後片付けが終了した後、アル少年はラスティに声をかけられた。振り返ると、ラスティの方から何かを投げ渡される。落としそうになりながらも受け取り、それを見てみた。
「そいつは練習用の模擬刀だ。俺は彼女たちの部屋に食器類持っていくから、先に屋上に行っててくれ(アーク、送ってくれ。くれぐれも見つかるんじゃないぞ?)」
「(了解しました、マスター)では、行きましょうか、アルさん?」
先に行っててくれと言ったラスティが、ティアマットたちが持ってきた食器類を全て持ち、二人の後について出て行った。取り残されたかたちになったアル少年に、アークが声をかける。返事をして、アークがやや先行し屋上に向かった。
石造りの廊下、本塔にたどり着くと、そこには人気が殆ど存在しない。補修授業を行う先生たちはすでに教室棟に向かい、生徒たちも少ないため、殆ど隠れることなしに彼らは進んだ。
アルは模擬刀を抱きかかえて、前を歩くアーク(少女)を見る。軽い音を響かせて、まるで始めて来たところであるかのように見回しながら歩くその姿は、アルの目から見ても微笑ましく見える。だがそれを見て、アークが自身の師に向ける視線が少しだけ気になったような気がしたアル少年は、アークに質問した。
「アークさんは、師匠のこと、好きなんですか?」
ティアマットをくっ付けようとするような行動が見られるが、だが自身も彼を愛しむような視線を送っていたことを気になっていたアルが言葉にしたのは、ある意味彼らしいストレートな聞き方
無機質な音ばかり響いていた中で、その言葉に反応したアークは、振り向いてアル少年に笑いかけながら語る。歩みは後ろ向きで止まらない。曲がり角もしっかりと曲がる。
「ふふふ、それを私に聞いたのは、貴方が初めてです。
……そうですね……恐らくアルさんが考えているものとは少々違った意味で、私はマスターのことを愛しています」
「?……どういうことですか?」
アークの言う言葉の意味を察することの出来なかったアルが、首を傾げて再度質問する。アークは再び振り返り、前に向き直る。アルが首を再度傾げていると、突然仰々しく手を広げながらアークは語った。次第にその手は、ゆっくりと自らの体を抱きしめる。
健康な心拍数は何ですか
「私の名は
その声音は今までアークが発してきたものと違う響きを持つ。広く冷たい石の印象を持つ廊下に声は緩やかに響いていき、意味を正確に伝えられないながらも、アルの心に言葉を染み込ませる。
「空と海の揺り籠たることを誓い、あの御方に仕えると決めた精霊———それが私
私はあの御方の隣に立つ者足りえず、ただ空を抱き仕えるのです」
体を抱きしめる腕を解き、再度振り返ってアルに向き直る。目の前はすでに屋上への扉があり、その前でアークは立ち止まって見ていた。大きく見下ろす形となった構図で、アルも立ち止まってアークの目を見つめる。
「私は世界種で、性別の概念が存在しません。それにマスターには、すでにお似合いの女性もいらっしゃるのです。ですから私は、貴方が言うような、人における'愛'とは違った形で、マスターをお慕い申し上げるのです」
口調の戻ったアークが、呆けるアルをおいて行くように屋上への扉の向こうに消えていった。かけられた言葉を反芻するが、その意味を捉えきれないアルは、自分なりの解釈でよしとすることにした。
� ��要するに師匠は、モテモテということですね」
何も分かっていなかった。
————————————————
「今日はありがとな」
ティアマットとステラの寮に食器類を持っていく道中、ラスティは彼女たちにそう礼を言う。お礼なんていいと言う二人に、それはいけないとラスティは続けた。
「だってこの食事だって、俺がライス好きなの知って作ってくれたんだろ? 朝食作ってくれただけでも有り難いのに、俺の故郷の飯を作ろうとしてくれてたってんじゃ、有り難味は大きすぎるってな、これが」
流石にバレたかと反応する二人に、バレ無いと思ったのかと返すラスティ。せめてもの礼をと食器類を運ぶ中で、ラスティは別のことについても礼を言った。
「それと……事情、深く聞かな� ��でくれてありがとな」
アル少年のことだった。明らかに部外者の少年が、何故学院内に居るのかということを聞かないで、軽く事情を聞くのみにおさめてくれたことは、ラスティにとって日本食を作ってくれたのと同じぐらい有り難いことだった。照れ笑いを隠しながら、ティアマットがラスティに言う。
何歳が言うには赤ちゃんを用意するのは良いことです
「なんだか、理由があるみたいだったから————それに、ラスティが何か悪いことしてるって訳じゃないのは、みれば分かったから」
やや小さな声でそういったティアマットに、ステラが大きく首を上下させて同意する。そんな彼女たちに―――
「そっか……ありがとな」
―――やはりラスティは礼を繰り返すのだった。
アークとアルが屋上に到着してから程なくして、ラスティもそこに到着した。ラスティが現れたところに、何処からとも無くアーク(少年)が小走りで駆け寄ってくる。お疲れ——そう労いの言葉を送られたアークは、同じような言葉をうれしげに返した後、アルについて言った。
� �どうやらアルさんは、マスターが待ちきれなかったみたいのようで、剣を振り始めようとあちらに向かいました」
そう言ってアークが指差した方向を、ラスティは見る。やや離れた方角に、剣を構えるアル少年の姿が見える。彼に気付かれないようにそっと移動したラスティは、角材の積み上げられた場所に腰を降ろした。頬杖をつき、アル少年のことを観察する。
「(俺、そもそも人に剣を教える自信が無いんだが、どうすればいいかな、アーク)」
「(マスターの場合、剣術ではなく魔術ですものね、あれは)」
念話で会話する主従の前で、アルが動作を始めた。それは、大きな曲線を描いて振るわれた。
「(おい……)」
ラスティが驚愕に声を出してしまいそうになるのをこらえた。アークは呆然としている。
その剣筋は素人目にも直感的に分かるほどに未だ未熟すぎる。だが彼が行っている剣の'型'は、突きの動作の無い曲線の軌道で構成されたもの。それはあまりに見覚えがありすぎた。
しばらくの時間がたち、掛け声と共に最後の一太刀が振るわれた。その数六十四。それを数えていたアークが、ラスティに念話で報告する。
「(マスター、あれはどうやら'
家庭血圧のマシンがどのように正確である
その驚愕とも言える事実に、更に言葉を失うラスティ。目の前に起こったことは、彼には到底信じられるものでは無かったのだ。
最初の一太刀目の逆袈裟の一振り、その次の翻った横の太刀、大きく軌道変更し打ち込まれる利き腕の肩口からの袈裟———全ての軌道の大まかなライン、翻る方向、振る目標——それらあらゆる要素が、かなり未熟ながらも完全にアルには記憶されていたのだ。
「っはぁ、はぁ、はぁ……」
確かに後半になるにつれ体力はきれるし、体裁きも鈍く、剣閃も棒切れを振り回しているに過ぎないもの。だが六十四の太刀、それも一度も止まることなく放たれるそれを覚えているのは異常極まりない。彼は一度しかそれを目にしていないのだ。
一連の動きを終えたアルが、ラスティが来ていた事に気付いた。今の動作を見られていたことを知り、恥ずかしいらしく、誤魔化すような笑いをしながら口を開いた。
「あ……み、見られちゃい……ましたか?」
切れる息を整えようとしつつ、彼はそう言葉を発する。六十四の無酸素運動をやり続けたのだ、今彼の体は全身が悲鳴をあげ、酸素を欲していることだろう。驚きを悟られないように、表情を元に戻したラスティはその場から飛び降り、用意した濡れタオルをその顔に軽く投げつけて言った。
「おう、しっかり見てたぞ? それにしても最初から無茶するな、阿呆。力みすぎでそんな振ってればすぐにへたれるに決まっているだろう?」
つい先日それで痛い思いをしたラスティが、遠くを見ながらそ� ��声をかける。模擬刀を置き顔を拭いたアルは、自らの師の顔を見上げて言った。
「りきみすぎ、ですか?」
「ああ、そうだ。まぁ、俺の剣は特殊すぎるんだが……」
そう言って一度言葉を切り、アルの方を見つめる。その無垢な輝きを抱く瞳は、どんな困難でもやり遂げてみせますと語っていた。自分が魔術で行っていることを真似しようとするその精神には敬意を示したいが、正直彼はやめた方がいいのではと思っていた。だが不可能と決め付けるのは早々過ぎると思い、ラスティは自分なりのアドバイスを告げる。
「いいか。腕が剣を振るんじゃない。剣の動きを極限まで邪魔しないんだ。剣の軌道を導け、そして、自分ていう一つの'世界を感じろ'」
そうしてラスティは、百聞は一見に如かずと、自らの剣を取り出す。アークも'
「O aire feene Xeen?(世界を感じているか?)」
理想を、幻想を自身の身に重ねる、魔術としても剣術としても異常なそれ。アルにはその異常性を知ることは皆無だが、そうである故に純粋にその美しさに見惚れた。
全六十四の太刀は、淀み無く流麗で、曲線でありながら時に直線。剣の握りには余裕があり、腕に遅れて繰り出される刃先は空気を撫で斬る。一点で交わる全軌道は球を描き、その銀色の光を再び焼き付けさせた。
唾を飲む音が、アルから発せられる。その理想の高みを再認識し、それでも追い求めると瞳には強い意志が注ぎ込まれる。
左利きのラスティの姿を、鏡映しに映った姿と見立てて、アルはその動きを眺めていた。
六十四の太刀を終え、予告無く追加の動作を開始する。通常の'ライン'で行われるそれは、先ほどほどの連続性は失われているが、鋭さは増している。アルを正面に見据え、間合いのほんの少しだけ外から放たれる斬撃は、アルの顔に剣圧を感じさせる。だがそれに目を閉じることは無く、しかとその全てを焼き付けた。
しばらくしてその動作が止まる。剣を収め、アークから水を受け取ってそれをあおると、少しだけあがった息でアルに話す。
「他には……俺は細かいことを言える自信は無い。自分の体を信じてみな、最良の動きは体が知ってるはずだ」
そうしてアルは、その言葉を心に刻み、向かい合って鍛錬を続けた。手本を見せるように、時折ゆっくりと動いてみせるラスティ、それを鏡写しのように真似るアル。そんな光景が、長時間にわたって見られた。
アルが疲労で動けなくなるころには、日は高く昇りきっていた。
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